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薬害エイズ 阿部元帝京大副学長判決要旨毎日の視点へ毎日の視点
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5.3.10 まとめ
 以上にみてきたところを含め,関係各証拠を総合すれば,本件当時ないし昭和61年ころまでの「HIV抗体陽性の意味」等に関する研究者及び臨床医の認識は,おおむね以下のようなものであったと認められる。
 まず,そもそもの前提となる,エイズの原因論に関する認識の状況については,昭和59年のギャロ博士らのHTLV−V説の発表が,当初より非常に有力なものであると受け止められ,同年9月に開催された仙台の国際ウイルス学会においては,出席者の間で,LAVとHTLV−Vとが同じウイルスであるというコンセンサスが得られ,これがエイズの原因であるという考え方はウイルス学者のレベルにおいては定着したとみられる。しかし,他方において,このウイルスがエイズの原因であるという考え方においても,抗体陽性者の中におけるエイズ患者の相対的な少なさや,そのリスクグループ相互間における当時のエイズ発症者の割合の相違などの事情もあって,HIV感染はエイズの主たる原因であるが,発症にはコファクターが深く関与しているという見方がむしろ一般的なものであった。さらに,ギャロ博士の研究グループが,昭和58年にはHTLV−Tがエイズの原因ウイルスであるという説を発表していたこと,HTLV−V説を提唱した後においても,このウイルスがHTLVのグループに属するという見方を主張していたことなどの影響から,被告人を含めた我が国の研究者の一部においては,昭和59年末ないし昭和60年初めころまでの間,なお,HTLV−TとHTLV−Vとの間に,ひいてはHTLV−Tとエイズとの間に,何らかの関係があるのではないかという考え方が影響を及ぼしていた。
 そして,「抗体陽性の意味」に関しては,本件当時までにも抗体陽性者を基本的にウイルス現保有者である(抗体陽性の第1の意味)と捉えているように読める文献がないわけではなく,被告人らも基本的にはそのような捉え方をしていたと考えられるものの,他方においては,不活化されたウイルス断片に対する抗体の存在や免疫が成立している可能性を指摘する文献が少なからず存在し,とりわけ凍結乾燥等の製造工程を経た濃縮製剤の輸注によるものとみられた血友病患者の抗体陽性については,ギャロ博士やエバット博士が共著者である文献においてもそのような可能性が指摘されていた。
 また,抗体陽性者が現在ウイルスを保有しているとしても,将来にわたってそれを保有し続けるかどうか(抗体陽性の第2の意味)については,もとよりそのような可能性は否定できないものの,結局は長期間の観察に基づかなければ確かなことは判らないというのが正確なところであり,本件訴訟に提出された文献等の中でも,本件第一投与行為までに発表されていたものでHIVの一般的性質としてそのようなことを指摘したものは見当たらない。そして,昭和60年4月のアトランタ会議に出席した栗村医師等によって,本件第一投与行為の後である同年5月下旬ころから,「LAVはレトロウイルス科に属し,一旦生体内に入ると持続性感染が起こることが知られている。」などと,HIVの性質として「持続感染」を指摘する文献が現れるようになったものであった。
 さらに,抗体がウイルスに対して防御的作用を有するかどうか(抗体陽性の第3の意味)については,モンタニエ博士ですら昭和60年に至って「陽性者が持っていた抗体はエイズウイルスを中和する力がほとんどないことを確認した」と述べており,我が国の文献においては,やはりアトランタ会議の知見を受けて本件第一投与行為の後に発表された上記の栗村医師の論説等によって,「血液中の抗体のウイルスに対する中和の力価は非常に低いようである。」などという記載が現れるようになったものであった。
 検察官は,その主張を裏付けるデータとして,多数の海外文献等を挙げているが,これらのデータはいずれも,検察官主張のような見解を前提として眺めればそれに沿うデータであるようにも見えるものの,逆に,そうしたデータから検察官主張のような見解を推論することが容易でないことは明らかであって,そもそもそれらデータを報告したギャロ博士,モンタニエ博士,エバット博士ら自身が,本件当時までに公にされた論文や発言等で,検察官主張のような見解を明らかにしていたことはなかったばかりか,むしろそのような見方が成り立つかどうかはなお不明な部分があると認識していたものと認められる。
 そして,本件訴訟において証言した帝京大学病院以外の国内医療施設の血友病専門医は,本件当時,海外雑誌を含めた様々な文献等から,エイズに関する最新の危険性情報を汲み取ろうとしていた状況をそれぞれが詳細に供述したが,それでもなお,この抗体陽性の第1ないし第3の意味について,一義的で明確な認識を抱くには至っていなかったとの趣旨を一致して供述した。
 次に,HIV抗体陽性者あるいは感染者のエイズ発症率(抗体陽性の第4の意味)については,本件当時までは,海外研究者の先駆的な若干のデータが論文や学会での発言で短く言及されていた程度であって,そもそもHIV感染者のエイズ発症率を本格的に論ずる段階にも至っていなかったといわざるを得ない。この点も,昭和60年4月のアトランタ会議において複数の研究グループの観察結果が報告されてその内容が我が国に紹介され,我が国の研究者の間においても,昭和60年後半ころから昭和61年ころにかけて,ようやくHIV感染者のエイズ発症率について触れた文献が見られるようになってきたものである。そこでは,男性同性愛者と血友病患者とでは抗体陽性者からのエイズ発症率が異なるという考え方をとる研究者も少なくなく,そうした中には,昭和62年ころの段階においても,血友病患者におけるHIV感染者のエイズ発症率は男性同性愛者より遙かに低く,1〜2%台程度であると考える研究者も存した。他方において,発症集団を特に区別せずに発症率に言及する論者も,昭和61年ころまで,HIV感染者のエイズ発症率は10%程度であるなどとし,大部分の感染者はエイズを発症しないと考えるのが一般であった。さらに,本件当時ないしそれ以後においても,我が国におけるエイズ患者発生数が諸外国に比して少ないことから,「日本人はエイズを発症しにくい」あるいは「エイズ発症には人種差がある」などという仮説が,被告人を含む我が国の研究者の論説等においてしばしば指摘されていた。
 なお,検察官は,エイズの潜伏期間が数年以上の長期間に及び,しかも時の経過とともに更に長くなるものと認識されていたことから,その後もHIV抗体陽性者からのエイズ発症者が増加することにより,そのエイズ発症率が本件当時における罹患率にとどまらず,最終的には極めて高率に上るものと想定されたとも主張するが,仮に「その後も抗体陽性者からのエイズ発症者が増加する」ことを前提としても,そのことから直ちに,発症率が「最終的には極めて高率に上る」などといえるものではなく,最終的な発症率は,「その後に増加する」エイズ発症者の数によることは明らかであるところ,この「その後に増加する」エイズ発症者が多数であろうと想定されることについては,格別の論拠は示されていない。
 また,一般のウイルス感染症においては,ウイルスに感染してから潜伏期の最短期間が終わるまでは発症は見られず,また,発症がないまま潜伏期の最長期間を超えれば例外的な場合を除き不顕性感染で終わったと見られるのが通常である。これに対し,HIVは,現在の知見によれば,こうした従前の「常識」が当てはまらないウイルスであって,HIV感染症では上記のような意味での潜伏期の最長期間は存在せず,有効なエイズ発症予防治療がなされなければ感染後何年が経過してもエイズ発症の可能性があり,エイズ発症率が100%に近づいていくという,恐るべき性質のウイルスであったといわざるを得ない。しかし,本件証拠関係に照らせば,本件当時においては,被告人よりもエイズやHIVに関する最先端の学問的知識に接し,専門性も高かったとみられる研究者においてすら,こうしたHIVの特殊な性質に対する認識は乏しく,基本的には上記のような通常のウイルス感染症の枠組みで考えていたものと認めざるを得ない。
 こうした当時の研究者の認識の実態に照らせば,本件当時の被告人が,「HIV感染者の多くにエイズを発症させることを予見し得」たという本件公訴事実には,明らかに無理があるように思われる。

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