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5.3.3.3 検察官の主張について
以上に見てきたとおり,モンタニエ博士及びシヌシ博士が本件当時ころのエイズやHIVに関する認識として述べるところは,一見して本件における検察官の主張に反する部分が少なくないように考えられる。これに対し,検察官は,前記5.3.3.1のモンタニエ博士のサンフランシスコのコホート研究のデータに関する記載を引用した上,米国におけるコホート研究のデータは,既に(1)ギャロ博士らの昭和59年9月のランセット論文で報告され,(2)同年11月開催の第4回血友病シンポジウムでのエバット博士の報告や(3)同月開催の高松宮妃シンポジウムでのギャロ博士の報告でもデータ等が紹介されており,被告人もそれら報告に接していたと主張する。この主張は,仮にモンタニエ博士の当時の抗体陽性の意味に関する知見が上記著書の記載のようなものであったとしても,被告人は同博士以上の情報を有していたのだから,抗体陽性の意味を検察官主張のように理解していたはずであるというもののように解される。しかし,これらの「報告」の意味付けは各所で述べたとおりであって,これらがモンタニエ博士のいうサンフランシスコのコホート研究のデータに匹敵するような科学的価値のある情報であったと評価できるかどうかも疑問である上,(1)については被告人が当時この論文に接していたという証拠も存せず,むしろ,被告人とモンタニエ博士の専門分野の相違にかんがみれば,同論文に目を通していた可能性はモンタニエ博士の方がはるかに高いものと推測するのが自然であるし,(3)については,モンタニエ博士は同じシンポジウムの報告者であったものである。また,(2)についても,本件当時,モンタニエ博士らのグループとCDCが密接な協力関係のもとにLAV研究を進めていたことは本件証拠上明らかであり,CDCのデータについても,モンタニエ博士らのグループは被告人以上に精通していたものとみるのが自然である。
さらに,検察官は,HIVの持続感染性やHIV抗体の防御性に関する昭和59年末当時の情報や認識に関するシヌシ博士の証言について,(1)自らの研究では,エイズ患者やHIV抗体陽性者の検体数が限られていたことなどから,未だその範囲における限定された数の個体について抗体とウイルスが同時に検出され得ることを証明することができたにとどまるという趣旨であって,ギャロ博士やエバット博士の報告ないし認識と矛盾せず,いわんやこれを左右するものではない,(2)他方で,同博士が,「濃縮製剤を大量に投与された血友病患者群の60%がLAV抗体陽性であったことなどから,明らかに,LAVに感染した供血者由来の抗血友病製剤を介して血友病患者のウイルス感染が起こったと我々のグループは考えていた。」旨供述し,同博士らのグループにおいても,同抗体陽性者が同ウイルスに感染しているとの認識を有していたことを明らかにした,と主張する。しかし,(1)については,検察官が同所で引用するギャロ博士やエバット博士の報告の評価は各所で述べるとおりであって,検察官の主張するような意味付けをすることはできない上,シヌシ博士の証言が,当時同博士が得ていた米国の情報を含めたウイルス学の最新の知見を前提としてなされているものであることは,その供述自体から明らかである。また,(2)については,検察官が前記5.3.3.1の高松宮妃シンポジウムにおけるモンタニエ博士の発表の論文を示して,「これが当時の我々のグループの考えであった。」との証言を得たものであるが,ここで示された論文の「ウイルス感染が起こった(原文は“viral transmission occurred”)」は,原文の表現に照らしても,ウイルスが過去に侵入し(又はこれに加えて感染が成立し)たことを述べているに過ぎず,「抗体陽性者が現在もウイルスを保有しているかどうか」はこの表現からは不明である。
他方,LAV抗体陽性者のエイズ発症率に関するシヌシ博士の証言について,検察官は,昭和59年末当時,約10%と見積もられていたが,それは過小評価であって,我々は,発症率はもっとずっと高いと考えていた,というものであると要約して,同博士らのグループにおいても,同抗体陽性者のエイズ発症率が最終的に高率に上るとの認識を有していたことを明らかにしたものであると主張する。しかし,同博士の証言内容は上述のとおりであって,「発症率10%が過小評価であって,発症率はもっとずっと高いと考えていた」旨の供述は,「LAVがレンチウイルスである」という,ウイルス学の最先端レベルでも昭和60年1月ないし3月に確定した知見を前提としたものであるところ,当該知見は,本件当時の我が国の血友病専門医においてはほとんど理解されていなかったとみられるのであり,しかもその発症率についての「考え」は証拠がなく外部に発表することができないものであった旨述べられていることが明らかである。同博士の当時の考えは,上述のとおり,「大部分の人がいつの日か発症するかもしれないと考えていたが,それがエイズを発症するのか,又は別の疾患を発症するのかは分からなかった」というものであり,また,モンタニエ博士がサンフランシスコのコホート研究のデータを知った時点においても,抗体陽性者の大部分の予後は分からなかったと述べていることも前記5.3.3.1のとおりであって,検察官主張のように解することはできない。
 
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